| 鼻で歩き,鼻で獲物を捕える哺乳類.第二次世界大戦直後,鼻で歩く一群の哺乳類が南太平洋の島々で見つかった.ダーウィン研究所のシュテュンプケ教授が解明した驚くべき動物群とその進化の様相.動物学上,今世紀最大の発見――. |
ハラルト・シュテュンプケ名義――著者は動物学者ゲロルフ・シュタイナー(Gerolf Steiner)――で発表された本書は,鼻行目 (Rhinogradentia)に分類される全14科189種からなる哺乳類の驚くべき生態を,客観的かつ精緻に論じている.1941年,スウェーデン人探検家エイナール・ペテルスン・シェムトクヴィスト(Einar Pettersson-Skamtkvist)によって発見された南太平洋のハイアイアイ群島.鼻器が異常に発達し,海綿体の充血により硬化させ鼻で歩行する哺乳類とその派生種の発見は,動物学史上最大の発見とも評される,という虚構.本書はエスプリに満ちた最高峰の学術パロディなのである.シェムトクヴィストによりハイアイアイ群島は初めて欧米に知れ渡ることになった,というのがそもそも非現実的であろう.標高2,230mの峰を抱く島が,20世紀まで未発見であり続けたわけがない.
本書が世に出る直前,1957年にハイアイアイ群島から200km離れた場所で秘密裏に核実験が行われ,予想外の地殻の歪みが発生,シュテュンプケも所属していたハイアイアイ・ダーウィン研究所と鼻行目ら棲息生物は,群島もろとも海面下に没した――わざわざ「あとがき」でそう書いたシュタイナーが,シュテュンプケの貴重な論考を出版にこぎつけた,としている部分は,歴史の忘却から免れた学問的価値へのセンチを誘う.54件の引用文献のうち,46件はデタラメな羅列.ハイアイアイ・ダーウィン研究所はおろか,サウス・アングルーズ大学など大学名,生物学会名,書店名もほとんど実在しない.ハイアイアイ群島にしか生息しないはずの鼻行類だが,ブラジル鼻行類学,アルゼンチン鼻行類学,スイス鼻行類学,スカンジナヴィア鼻行類学と,ジャーナルを発行する国と地域に統一性がまるでない.参考文献に「背理生理学」「ブラック・ゴーツ(黒山羊)科学医学映画KK.」(所収論文「哺乳類であったナメクジ」には失笑).どれも支離滅裂で意味不明.
さらに注意深く見るなら,「ビルクホイザー書店」とは,バーゼルにBirkhauserというプレスは実在するものの,おとぎ話を論じたユング派S・ビルクホイザー‐オエリ(Sibylle Birkhauser-Oeri)から拝借されていることも推測できよう.だが何より決定的であるのは,「ピルトダウン大学出版部」なる出版社が挙げられていることだろう.科学史上まれにみる贋作事件として名高いピルトダウン事件――イギリス旧サセックス県における化石人骨発掘捏造――にほかならない.しかも,本文からあとがき,訳者あとがきに至るまで,鼻行類とハイアイアイ群島自体が虚構であることは何ら明かされていない.「ピルトダウン」の名が引用文献にそれとなく紛れ込んでいることで,はじめて眉唾から確信の合点がいった読者も多かったはずだ.それに気づかず「動物学史上最大の発見」を素直に信じた読者は,それ以上に多かったに違いない.それだけ学術書の体裁として,高い完成度を誇っている.特にアカデミックなフォローを行うまでもなく,多少のリサーチで検討してみればデタラメであることが判る.
本書には,動物行動学の際立つ専門性,科学的思考を支える教養の深さ,群を抜いた想像力,かつ悪戯心と自己顕示欲が投入され成立そのものが大掛かりなパロディであって愉快だが,優れたサイエンティストが科学主義を揶揄する意図は,空恐ろしいものがある.中身が非科学的な虚偽であっても,ツールとロジック,形式を整えれば人を説得でき,批判以前に疑念を避けることすら可能,という事実への恐怖である.もっとも,「鼻行類が地球上に存在しない」というのは悪魔の証明の類で,不存在の立証は不可能.したがって,鼻行目とその生態系は明らかに捏造と知らせるため,それと判る複数のエビデンスを忍び込ませている.これにより,仮に未来のある時点で鼻行類が発見されたとしても,本書が成立した時点では鼻行類を検討した科学的知見として,不正確であることの確証は揺らがないのである.
++++++++++++++++++++++++++++++
Title: BAU UND LEBEN DER RHINOGRADENTIA. 1972 AUFL
Author: Gerolf Steiner, Harald Stümpke
ISBN: 4783501459
© 1987 思索社
