▼「姉妹」ジェイムズ・ジョイス

ダブリナーズ (新潮文庫)

 老神父の死を通じ,少年の沈黙した内面にアイルランドの精神的麻痺を刻むジョイスの初期傑作.「欠落」の輪郭こそが意味を宿す,モダニズム散文の原点――.

 0世紀散文が辿るべき方向を示す,モダニズムの宣誓である.老神父の死と,それを受け止める名もなき少年の内面という,ほとんど何も起こらない物語の中に,ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)はアイルランド社会の精神的病理を,声高には語らぬ形で刻み込んだ.初稿が1904年,農業雑誌「アイリッシュ・ホームステッド」に掲載されたことはよく知られている.署名は「スティーヴン・ディーダラス」という偽名であった.ギリシャ神話の迷宮建造者ダイダロスの名を冠した署名は,後に『若き芸術家の肖像』『ユリシーズ』の主人公として不滅の地位を得ることになる.

 若き日のジョイスは,ダブリンの内側にいながら,すでに外部から自分の都市を見る視線を獲得しつつあった.物語の冒頭,少年の意識のなかで3つの言葉が繰り返し反響する.paralysis(麻痺),gnomon(ノーモン),simony(聖職売買).少年はその意味を完全には把握していない.しかし言葉の響きは,意味に先立って彼を捉える.ユークリッド幾何学における「ノーモン」とは,平行四辺形から相似形を除いた後に残るL字型の図形を指す.何かが欠落した状態の残余である.ジョイスはこの語を,イギリスの植民地支配とカトリック教会の二重の抑圧によって内部から空洞化した都市の隠喩として扱う.「麻痺」はその徴候,「聖職売買」はその腐敗の様式であろう.

 言語が情動に先行する,あるいは情動が言語に先行する薄明の領域こそ,ジョイスが切り拓こうとした意識の地形である.初稿から1914年の出版に至る約10年,ジョイスは本作を徹底的に改稿した.最も重要な増補が,フリン神父が「聖杯を取り落とし,割ってしまった」という挿話と,暗い告解室でひとり笑い続けていたという証言である.キリストの血を受ける器としての聖杯の破損は,恩寵の喪失,神との契約の断絶,聖職者としての内的崩壊を意味する.読者は事後的に,すでに読んだ言葉の重みが変容していることに気づく.ジョイス的な「エピファニー」の構造である.意味は出来事の中にではなく,事後の沈黙の中に顕れる.

 物語の中心が神父と少年の霊的な紐帯にあるとすれば,なぜ表題は「姉妹」なのか.ナニーとイライザの二人は,神父に誠実に仕え,丁重な葬儀を整えた善良な信者として描かれる.しかし彼女たちは,神父の闇の深さを根本的には理解していない.少年が覚える微かな居心地の悪さは,ダブリンという精神的風土との最初の,しかし決定的な亀裂である.「起こらないこと」「語られないこと」の堆積のなかに,全ての意味が宿る.農業雑誌の片隅に偽名で忍ばせた短い草稿は,10年の推敲を経て完全な「ノーモン」――何かが欠落したがゆえに,欠落の輪郭だけが残る図形――として完成した.

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Title: THE SISTERS

Author: James Joyce

ISBN: 410209203X

© 2009 新潮社

▼『死に山』ドニー・アイカー

死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相

 1959年,冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故.登山チーム九名はテントから一キロ半ほども離れた場所で,この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された.氷点下の中で衣服をろくに着けておらず,全員が靴を履いていない.三人は頭蓋骨折などの重傷,女性メンバーの一人は舌を喪失.遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された.最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ――.

 ソ連のウラル山脈北部,先住民マンシ族の言葉で「死の山」を意味するホラチャフリ山の斜面で,ウラル工科大学(UPI)の学生を中心とした9名が怪死を遂げた.この1959年2月の事件が世界中のミステリー愛好家を惹きつけてやまないのは,現場に残された異常な痕跡の数々――内側から切り裂かれたテント,氷点下40度の猛吹雪のなか裸足や下着姿で外へ出た足跡,外傷がないにもかかわらず粉砕された頭蓋骨や肋骨,舌と眼球が欠損した遺体,衣服から検出された高濃度の放射線――が存在するからだ.

 20世紀最大の未解決事件の一つに数えられる悲劇には,KGBの秘密兵器実験,UFOの飛来,雪男(イエティ)襲撃,マンシ族による呪いや報復など,荒唐無稽な仮説群が飛び交ってきた.著者は米国海洋大気庁(NOAA)の専門家などの協力を仰ぎ,流体力学の観点から「カルマン渦列」という自然現象の関与を仮説として提示する.ホラチャフリ山の左右対称なドーム状の地形とウラル山脈を吹き抜ける強風が相互作用し,交互の渦列を連続して形成した結果,人間が聴覚で知覚できない超低周波音(インフラサウンド)が発生したというものだ.

 一定の周波数帯のインフラサウンドが猛烈な吐き気や理由なき極限の恐怖を誘発しうるという知見を援用し,深夜のテントの中でこの「見えざる恐怖」に襲われた9名が錯乱し,テントを自ら切り裂いて雪原へ出たという推論である.しかし,本仮説には物証との根本的な齟齬がある.1959年当時の調査報告および後年の再調査(ロシア連邦捜査委員会:2015–2019)がともに確認しているのは,テントから森へ続く足跡はすべて一人一人が通常のペースで歩いていたことと一致しており,現実の,あるいは想像上の脅威からパニック状態で逃げた集団の足跡とは一致しない.

 2020年にはロシア連邦検察がスラブ雪崩を公式死因として発表し,2021年にはスイス連邦工科大学ローザンヌ校およびチューリッヒ校の研究チームが査読論文においてスラブ雪崩説を数値モデルで実証した.本書の仮説は,刊行からわずか数年で主流の座を明け渡している.法医学的な致命傷――雪の荷重による死後圧迫なのか,渓谷への滑落時の衝撃なのか――についても,一部の謎を収束させるために強引に捨象しており,未解決の余白は著者が認めるよりはるかに広い.美しくも無慈悲な自然と対峙した若者たちへ捧げられた鎮魂歌としての価値は疑いないが,科学的仮説の書として読む場合には,その後の研究史を参照したうえで手に取るべき一冊である.

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Title: DEAD MOUNTAIN - THE UNTOLD TRUE STORY OF THE DYATLOV PASS INCIDENT

Author: Donnie Eichar

ISBN: 4309207448

© 2018 河出書房新社

▼「楢山節考」深沢七郎

楢山節考 (新潮文庫)

 「お姥(んば)捨てるか裏山へ裏じゃ蟹でも這って来る」雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを,孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく.残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ……因習に閉ざされた棄老伝説を,近代的な小説にまで昇華させた――.

 沢七郎がギターを携えて文壇に現れた1956年,日本の純文学は一つの奇襲を受けた.本篇は,戦後民主主義が丹念に積み上げてきた「人間の尊厳」を,雪に閉ざされた山村の残酷さによって,完膚なきまでに打ちのめした.三島由紀夫は「文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれた」「慄然たる思ひ」と記し,猛烈に推した.都会的なデカダンスとは程遠く,土着の泥の中から死とエロスが立ち上がってきたことへの三島の衝撃は,知的な敬服と底知れぬ動揺が入り混じったものだった.

その次の夜,おりんはにぶりがちの辰平を責めたてるように励まして楢山まいりの途についたのである.宵のうちに明日みんなが食べる白萩様もといでおいたし,椎茸のことも,いわなのことも玉やんによく云っておいた.家の者達が寝静まるのを窺って裏の縁側の戸をそっとはずした.そこで辰平のしょっている背板に乗ったのである

 民俗学者たちが史実と異なる旨を反駁すると,深沢は私の脳内にある村だ,と涼しく一蹴した.実際には山梨県境川村大黒坂の農家の年寄りから聞いた姥捨伝説を題材とし,それを肝臓癌を患った実母の「自らの意思で餓死しようとしている」壮絶な死に重ねながら書かれている.アカデミズムを翻弄する嘘に,真実を超えたリアリティを忍ばせる.それが深沢の流儀だった.

 恐ろしいほどの核心は,おりんが自らの健康な歯を石臼の角に打ちつけて欠く一撃にある.楢山の掟において,丈夫な歯=旺盛な食欲は「罪」.資源の乏しい共同体では,他者より長く生きようとすることが,すでに暴力に等しい.深沢自身もこの「歯」の主題を身体で引き受けた.本作の印税で真っ先にしたことは,自分の歯をすべて抜いて総入れ歯にすることだった.峻厳な論理が,軽やかで即興的な文体に乗って語られるとき,読者は残酷さと奇妙な安堵が同居する感覚を味わう.

 楢山の頂でおりんの上へ静かに積もる雪が,真の主語となる.善も悪もなく,後悔も救済もない.人間が土に還り,山の循環に溶け込む――ただそれだけのことが,圧倒的な静謐として肯定される.後年,深沢は「ラブミー農場」というコミューンを営み,庶民と交わりながら放浪の哲学を生涯貫いた.彼が到達したのは,過剰な延命,死を忌避することを自明とする現代文明に対して,ニヒリズムの遥か向こう側に広がるアナーキーな肯定であった.

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原題: 楢山節考

著者: 深沢七郎

ISBN: 4101136017

© 1964 新潮社

■「ワイルドシングス」ジョン・マクノートン

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 匂いたつエロスと犯罪の香り.このふしだらなパズルは誰にも解けない.まばゆい陽光降り注ぐフロリダ州エバーグレーズのブルー・ベイ.美しく広がる海のある町で,スキャンダラスな事件が起きた.良家の子女が通うブルー・ベイ高校の女子生徒ケリーが,指導カウンセラーのサム・ロンバードからレイプされたと訴えたのだ.だがそれは,単なる事件の始まりだった….

 イアリズム――覗き見趣味――を精巧な罠として仕掛けたネオノワールである.観客が抱く「お約束」への期待を周到に利用し,鮮やかに裏切る.フロリダの架空の高級住宅街ブルーベイを舞台に,人望の厚い高校教師サムが対照的な2人の女子生徒からレイプ告発を受けるという導入は,典型的なメロドラマの定型を踏む.通俗的なパッケージングをあえて施すことで,観客の知的な防衛線を緩めさせる.物語が中盤へと差し掛かった頃,観客はようやく気づく――懸命に追い続けた「真実」とは,幾重にも連なるマトリョーシカ人形の,最も外側の薄い殻に過ぎなかったことに.

 三流の悪徳弁護士ボウデンを演じたビル・マーレイ(Bill Murray)は,首にコルセットを巻いた滑稽な挙動の裏に底知れぬ狡猾さを忍ばせる.セリフの大部分はアドリブによるものだったというが,その即興性が「見た目通りのものなど何一つない」という本作のテーマを,肉体を通して直接に体現している.製作総指揮を兼任したケヴィン・ベーコン(Kevin Bacon)の正面全裸シーンもまた,ショックバリューではない.女性キャストにのみ露出を強要するハリウッドの二重基準への批判的なステートメントとして,ベーコン自身が進んで提案したという.

 輝く太陽,高級クルーザー,至近に広がる澱んだエバーグレーズの湿地.フロリダ特有のまとわりつくような熱気と湿気は,人物たちの倫理的腐敗と飽くなき欲望のメタファーとして画面に漂い続ける.登場人物の誰一人として無実ではない.全員が捕食者であり,等しく野生の獣(ワイルド・シングス).特権階級の象徴たるブルーベイの冷たいプールの水,貧困と復讐心の温床である沼地の泥水が交錯するとき,階級間のルサンチマンは抽象的な社会矛盾から,視覚的かつ肉体的な脅威へと昇華される.本作の革新性はエンドクレジットの構造にある.

 本編終了後のロール中に事件の真相を暴くフラッシュバックを挿入し,物語の最終ピースを観客の手に渡す手法――これをメインストリーム映画において確立したパイオニアのひとつが本作である.ポスト・クレジットの映像が慣習化した現在においても,それらの多くが「おまけ」の域を出ないのに対し,本作のそれは物語の完結に絶対不可欠なテクストである.観客は劇場を去る直前まで自らの認識を覆され続け,極上のカタルシスとともに映画館を後にした.徹底した人間不信の美学が,本作の骨格を一本の鋼線のように貫いている.

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  • ケビン・ベーコン.マット・ディロン.ネーブ・キャンベル
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原題: WILD THINGS

監督: ジョン・マクノートン

108分/アメリカ/1998年

© 1998 Columbia/TriStar

▼『原因と結果の経済学』中室牧子,津川友介

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

 「メタボ健診を受けていれば健康になれる」「テレビを見せると子どもの学力が下がる」「偏差値の高い大学に行けば収入は上がる」はなぜ間違いなのか?世界中の経済学者がこぞって用いる最新手法「因果推論」を数式なしで徹底的にわかりやすく解説――.

 間の脳は,物語を紡がずにはいられない.AのあとにBが起きれば,そこに因果の糸を見出そうとする認知の傾向は根強い.「アイスクリームの売上が伸びると,水難事故が増える」.そのデータを目にした瞬間,「食後の水泳は危険」という物語が反射的に脳内に立ち上がる.背後にあるのは「気温の上昇」という第三の変数(交絡因子)であり,二者のあいだに存在するのは因果ではなく相関に過ぎない.

 現実には,倫理的・制度的理由から意図的な実験が不可能な場面のほうが圧倒的に多い.そこで,方法論的な出発点として置かれるのが,反事実の概念である.真の因果を証明するためには,もし別の選択をしていたら,どうなっていたか――現実には観測不可能な対称世界――を想定しなければならない.対象をランダムに割り付けることで未知の交絡因子の影響を均質化し,純粋な介入効果だけを抽出する論理は,今日の医学臨床試験からウェブサービスのA/Bテストに至るまで,意思決定の基盤インフラとして定着している.

 専門家の間にのみ流通してきた因果推論という難解なパラダイムを,数式も用いず,論理的かつ平易な言語で一般読者へと開く.本書の核心部(第三章〜第七章)は,観察データのみが手元にある世界において,いかにして因果を炙り出すかという手法群の解説に充てられる.自然実験,差の差分析,操作変数法,回帰不連続デザインと展開される手法は,それぞれが異なる仮定に基づきながらも,世界のどこかで偶発的に生じた自然のランダム性を掘り当てるという共通の論理に貫かれている.

 手法的展開の末尾,終章(第八章)では古典的な回帰分析が置かれる.因果推論の構造を先に提示し,最も汎用的な分析手法を最後に補足する入門書として自然な積み上げ構成であるが,同時に,大量のデータから相関的傾向を抽出する回帰分析は強力であっても因果推論に適した設計の代替にはなりえないという文脈でも読める.サンプルサイズがいかに膨大であろうとも,そこに因果の構造が組み込まれていなければ,巨大な相関関係の集積に過ぎない.ビッグデータは相関の発見には適しているが,因果の証明には適していない.本書の指摘は,データサイエンスの潮流に対する冷静な批判であろう.

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原題: 原因と結果の経済学―データから真実を見抜く思考法

著者: 中室牧子,津川友介

ISBN: 447803947X

© 2017 ダイヤモンド社