| ひとりぼっちで町に出てきている貧しい絵かきの若者をなぐさめに,月は毎晩やってきて,自分が空の上から見た,いろいろな国のいろいろな人に起ったできごとを,あれこれと話してくれた.それは,清らかな月の光にも似た,淡く美しい物語のかずかずであった.生涯旅を愛したアンデルセンらしいロマンティックな一冊――. |
屋根裏部屋に住む貧しい若き画家の元へ,毎夜月が訪れ,世界中で目にした光景を語って聞かせる.読者は物語を能動的に聴き取る同席者として屋根裏部屋に召喚されるのだ.貧しい画家にはハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)の自伝的な背景がある.故郷オーデンセからコペンハーゲンへ単身上京し,孤独と貧困のなかに芸術家の夢を抱き続けた面影である.個人的な記憶は,本作においてセンチメンタルな告白へと収斂することなく,普遍的な「芸術家の孤独」という主題へと昇華される.
全33夜にわたる月の語りが実現するのは,いかなる人間の語り手にも不可能な視座である.月はインドのガンジス川からアフリカの砂漠,パリの劇場,北欧の無名の路地裏へと自在に移動する.同時に社会的階層の境界をも飛び越え,宮殿の王侯貴族と貧民窟で凍える少女を等しく照らし出す.アンデルセンは生涯に29回もの国外旅行を重ね,旅は生きること(At rejse er at leve)という言葉を残した人物であった.本作における地理的スケールの広大さは,19世紀における交通網の発達という時代的条件と,アンデルセン固有の放浪への意志が交差した地点に生まれている.
遍歴の月は語るが,裁かない.人間の悲喜,栄華と悲惨を,ただ静かに照らし出す.冷徹でありながら限りなく優しい全視の視点は,感傷へと流れる危険を回避しつつ,客観美としての叙述を可能にしている.各夜のエピソードは相互に独立しながら,全体として人間世界の断面図を構成する.各夜で完結するエピソードは,一瞬の情景を切り取った素描的性格を持つ.フランス七月革命の動乱のなか玉座で息絶える貧しい少年(第5夜),愛する者の墓前で人知れず涙を流す滑稽な道化師の哀歓(第16夜)――人間の生命の儚さ,社会的不条理が,過剰な説明を排した散文詩の形式で提示される.
非連続性と統一性の共存という構造的緊張は,19世紀中盤の文学形式としては先進的であった.光と影の対比という古典的な美学であるが,月光は万物を平等に照らすと同時に影をも生み出す.善悪の判断も社会的評価も,月にとっては関わりがなく,中立性が倫理的な判断を保留したまま,人間世界の哀歓の叙述を根拠づけた.情景の断片から読者自身に感情と意味を引き出させる手法は,のちのフランス文学における印象主義的散文の先駆としての性格が認められる.
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Title: BILLEDBOG UDEN BILLEDER
Author: Hans Christian Andersen
ISBN: 9784003274132
© 1975 岩波書店




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