▼『絵のない絵本』アンデルセン

絵のない絵本 (岩波文庫 赤 741-3)

 ひとりぼっちで町に出てきている貧しい絵かきの若者をなぐさめに,月は毎晩やってきて,自分が空の上から見た,いろいろな国のいろいろな人に起ったできごとを,あれこれと話してくれた.それは,清らかな月の光にも似た,淡く美しい物語のかずかずであった.生涯旅を愛したアンデルセンらしいロマンティックな一冊――.

 根裏部屋に住む貧しい若き画家の元へ,毎夜月が訪れ,世界中で目にした光景を語って聞かせる.読者は物語を能動的に聴き取る同席者として屋根裏部屋に召喚されるのだ.貧しい画家にはハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)の自伝的な背景がある.故郷オーデンセからコペンハーゲンへ単身上京し,孤独と貧困のなかに芸術家の夢を抱き続けた面影である.個人的な記憶は,本作においてセンチメンタルな告白へと収斂することなく,普遍的な「芸術家の孤独」という主題へと昇華される.

 全33夜にわたる月の語りが実現するのは,いかなる人間の語り手にも不可能な視座である.月はインドのガンジス川からアフリカの砂漠,パリの劇場,北欧の無名の路地裏へと自在に移動する.同時に社会的階層の境界をも飛び越え,宮殿の王侯貴族と貧民窟で凍える少女を等しく照らし出す.アンデルセンは生涯に29回もの国外旅行を重ね,旅は生きること(At rejse er at leve)という言葉を残した人物であった.本作における地理的スケールの広大さは,19世紀における交通網の発達という時代的条件と,アンデルセン固有の放浪への意志が交差した地点に生まれている.

 遍歴の月は語るが,裁かない.人間の悲喜,栄華と悲惨を,ただ静かに照らし出す.冷徹でありながら限りなく優しい全視の視点は,感傷へと流れる危険を回避しつつ,客観美としての叙述を可能にしている.各夜のエピソードは相互に独立しながら,全体として人間世界の断面図を構成する.各夜で完結するエピソードは,一瞬の情景を切り取った素描的性格を持つ.フランス七月革命の動乱のなか玉座で息絶える貧しい少年(第5夜),愛する者の墓前で人知れず涙を流す滑稽な道化師の哀歓(第16夜)――人間の生命の儚さ,社会的不条理が,過剰な説明を排した散文詩の形式で提示される.

 非連続性と統一性の共存という構造的緊張は,19世紀中盤の文学形式としては先進的であった.光と影の対比という古典的な美学であるが,月光は万物を平等に照らすと同時に影をも生み出す.善悪の判断も社会的評価も,月にとっては関わりがなく,中立性が倫理的な判断を保留したまま,人間世界の哀歓の叙述を根拠づけた.情景の断片から読者自身に感情と意味を引き出させる手法は,のちのフランス文学における印象主義的散文の先駆としての性格が認められる.

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Title: BILLEDBOG UDEN BILLEDER

Author: Hans Christian Andersen

ISBN: 9784003274132

© 1975 岩波書店

▼『万民の法』ジョン・ロールズ

万民の法

 二十世紀最大の法哲学者・政治哲学者ジョン・ロールズの最晩年の主著.『正義論』で打ち出した「公正としての正義」の構想を世界規模に広げ,平和と正義に満ちた「万国民衆の社会」はいかにして実現可能かを追究.正義の戦争は正当化できるか,恵まれた社会はどこまで他国を援助できるか.「公共的理性の観念・再考」併載――.

 著『正義論』で「公正としての正義」を説いたジョン・ロールズ(John Bordley Rawls)は,晩年において理論を地球規模(国際社会)へと拡張した.自らの理論を現実主義的ユートピア(Realistic Utopia)と呼び,国際政治の厳しい現実と,人間の道徳的な可能性をいかに結びつけるかという問いに挑んだ.本書で,ロールズは国際社会の正義原理を導くため,かの思考実験「無知のヴェール」を二段階で適用する.第一段階では,自由民主主義(リベラル)な諸国の代表が自国の有利な条件を知らない状態で国際協力のルールを選択する.第二段階では,リベラルではないが一定の道義を備えた良識ある階層社会の代表が加わり,同一のルールへの合意を求められる.二段階構造によって,ロールズは国際秩序をより多様な政治体制を包摂する「万民の社会」として構想した.

 最も論争的な問いは,民主主義を採用しない国家を国際社会の正当な成員として認めるべきか否かである.ロールズの答えは,条件付きの肯定であった.【1】他国を侵略しないこと,【2】生命・安全・財産・形式的平等といった基本的人権を保障すること,【3】誠実な協議制度を通じて国民の意見を政治に反映させること――三条件を満たす社会は「良識ある社会」として尊重に値するが,あらゆる個人に平等な自由を要求するコスモポリタニズム――ピーター・シンガー,トーマス・ポッゲら――から見れば,重大な譲歩に映った.すべての国家にリベラリズムを強制すれば,別様の帝国主義に堕しかねない.文化的多様性を抑圧し,かえって国際的対立と不正義を深化させる危険を冷静に見据えた上で,ロールズは戦略的寛容の立場をとっている.

 理想論を提示した後,ロールズは理想が崩れた現実への処方として非理想的理論を展開する.他国を侵略する無法国家に対しては,自己防衛のための戦争が正当化される.しかしロールズが強調するのは,正義の側の戦争であっても,戦い方には厳格な倫理が必要という側面である.1945年のドレスデン爆撃,広島・長崎への原爆投下を,非戦闘員を直接標的とした点において明確に非難した.正戦論への眼差しは鋭く,戦争の目的が正しくとも,手段の正義は別途問われなければならない.また,歴史的経緯や制度的欠陥ゆえに自立できない困窮した社会に対して,国際社会は援助の義務を負うとされる.ロールズが求めるのは,当該社会が自律した政治体制を確立するまでの支援――いわば切断点を持つ援助――に限定される.

 ロールズにとって問題は分配的正義ではなく,政治的自律の条件整備なのである.コスモポリタンは言う――リベラルではない「良識ある社会」を認めることは,個人の権利よりも国家の主権を優先する保守的妥協であると.逆にコミュニタリアンは言う――二段階の無知のヴェールという手続き自体が,すでにリベラルな価値観を密輸入していると.ロールズは両側から挟撃を受けたが,理想を放棄することなく,理想の強制も拒む緊張の中間に立ち続けた.これを理論的中途半端と断ずるのは容易い.しかし,そもそも正義の哲学とは,割り切れない現実と理想のあいだで倫理的に踏みとどまることではなかったか.ロールズが最晩年に到達したのは,理想と現実のあいだで絶え間なく交渉を続ける宥和(ゆうわ)――妥協を恐れず,原則を失わない,知的誠実の在り方であった.

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Title: THE LAW OF PEOPLES - WITH "THE IDEA OF PUBLIC REASON REVISITED"

Author: John Rawls

ISBN: 4000244337

© 2006 岩波書店

▼『日本を決定した百年』吉田茂

日本を決定した百年 (中公文庫 よ 24-7)

 『日本を決定した百年』は,簡にして要を得た記述にて明治建国から戦後復興までの日本の近代化を跡づけた異色の歴史書である.すぐれた歴史感覚をもち勤勉に働く国民を描きながら,吉田は「日本人は甘やかされてはならない」と述べることを忘れていない.吉田の肉声が聞こえる「思出す侭」を付す――.

 度経済成長が実を結び,日本の貿易黒字が定着し始めた時代.「明治百年」を翌年に控えた1967年,エンサイクロペディア・ブリタニカの補追年鑑巻頭論文として書き下ろされた論考である.同年10月,89歳でこの世を去った吉田茂にとって,最後の遺言となった.軽軍備・経済重視を掲げ,戦後日本の針路を決定づけた吉田ドクトリンのプラグマティズムは,吉田の生い立ちと切り離して論じることはできない.

 生みの親は自由民権運動に奔走した自由党幹部・竹内綱,育ての親は莫大な財を成した横浜の貿易商・吉田健三である.吉田が生を受けたとき,実父の竹内は反政府的動向を問われ長崎の獄中にあった.このため吉田家へ養子に出されることとなる.実父から血脈として受け継いだ国士としての反骨精神,養父のもとで醸成された実業的政治感覚,トレードマークの葉巻に象徴される英国紳士的なブルジョア趣味.

 相矛盾する3つの気質を渾然一体とさせた環境が,「ワンマン宰相」と渾名される強烈な個性を育んだのである.吉田は,戦後の日本を「良き敗者」(Good Loser)と呼んだ.軍事的な敗北を潔く認めながらも,外交と経済によって平和裏に勝利を取り戻すという決意の表れである.明治の建国から戦後復興に至る百年の軌跡を一望する本書には,占領体制から講和,独立へと至る精緻なレールを敷いた「保守本流」の肉声が響き渡っている.

 徹底した英米協調路線に対しては,対米追従を招き,日本の自主性を損なったとの批判が現代に至るまで絶えない.冷静に問い返せば,冷戦という新たな世界秩序の只中で敗戦国が手にできるカードは,もとより限られていた.軍備の重圧をアメリカに肩代わりさせ,乏しい国力のすべてを経済復興へ注ぎ込む.弱者の外交とは,制約そのものを逆手に取る技芸である.本書から立ち上がるのは,現実主義を貫いた政治家の,最晩年においてもなお失われなかった進取の気象である.

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原題: 日本を決定した百年―附・思出す侭

著者: 吉田茂

ISBN: 9784122035546

© 1999 中央公論新社

▼「メッツェンガーシュタイン」エドガー・アラン・ポー

ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)

 ハンガリー貴族の男爵メッツェンガーシュタインは,宿敵ベルリフィッツィング家の馬に憑依した亡き当主の霊に支配され,やがて炎上する城の中へ馬とともに消えていく……呪いと破滅の怪奇譚――.

 名な傑作群の陰に置かれがちな小作品である.しかし,恐怖の源泉を外部の超自然現象から人間の内面へと移行させようとする,若きエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の実験的野心を凝縮した,極めて重要なテクストである.ポーにとって初めて活字化された短篇は,初出時にはドイツ風の模倣(A Tale in Imitation of the German)という副題が付されていた.1831年,フィラデルフィアの「サタデー・クーリエ」紙主催の懸賞に落選したのち,翌年同紙に掲載されるという経緯をたどった.

 当時,呪いや怪異を題材にした大仰なドイツの戦慄小説(Schauerroman)は,一種の流行現象であった.ポーはこれをパロディとして着想したのだろう.誇張を意図した記述が,書き進める過程でいつしか真の不気味さへと変質し,風刺の骨格を喰い破っていく.結果として本作は,嘲笑の対象であったはずのジャンルを,心理的恐怖の次元へと引き上げた.物語の骨格は,宿敵同士であるメッツェンガーシュタイン家とベルリフィッツィング家の因縁,炎の中から出現する巨大な馬の影――その正体に関して,超自然的解釈と心理学的解釈が完全に共存し,どちらも否定されない.

 超自然的な読みにおいては,タペストリーに描かれた馬が実体を帯び,炎の中で死んだ老伯爵ベルリフィッツィングの魂が転生した存在として,若き暴君フレデリックへの復讐を果たすと解せる.同時に,心理学的な読みも同等の説得力を持つ.巨大な馬は,フレデリック自身の抑圧された罪悪感と狂気の外化ではないのか.親の愛情を知らぬまま絶対的権力を手にした若者の内的荒廃が,幻覚として形を成し,やがて自らを炎へと誘い込む――そう読んだとき,この物語は,自壊する精神の記録として立ち現れる.

 後年,『告げ口心臓』『黒猫』で昇華させた罪悪感が幻覚を産み,幻覚が破滅をもたらすポーの恐怖心理は,すでに処女作に胚胎している.過剰な形容詞の堆積やメロドラマ的な展開など,初期作品固有の瑕疵を指摘することは容易である.それらの未熟さを差し引いてなお,内面から滲み出す狂気が自己を滅ぼすという心理ホラーの論理が,ほぼ完成された形で提示され,英米文学における「恐怖」の質を変容させる第一歩であった.ポーを読む者は,傑作の栄光だけでなく,この小さな処女作から読み始めるべきである.

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Title: METZENGERSTEIN

Author: Edgar Allan Poe

ISBN: 4488522017

© 1974 東京創元社

■「スリング・ブレイド」ビリー・ボブ・ソーントン

スリング・ブレイド [Blu-ray]

 過去に罪を犯した寡黙な男カールは,25年ぶりに故郷へと戻った.彼はそこで父親のいない少年とその母親と親しくなる.穏やかな暮らしを営み始めた彼が,ある時その母親の恋人,ドイルの虐待を知ってしまったことで,彼は過去に犯してしまった過ちを再び繰り返してしまう….

 部ゴシックの美学,愛のための罪という純粋性と暴力のパラドックス.幼少期に母親とその愛人を殺害し,数十年を精神病院で過ごした後に社会へ戻されたカールは,引きずるような歩行と下顎を突き出した独特の表情を持ち,異質な存在感を放つ.物語はカールと心を通わせる少年フランク,フランクの母の恋人ドイルとの対立を軸に展開する.社会的文法において,殺人の前歴を持つカールは「危険な狂人」に分類され,ドイルは社会の枠内にいる「健常者」である.本作は,この分類が倫理的実質とまったく無関係であることを静かに描く.

 カールの道徳観は,知的能力とは独立した魂の感受性に根ざしており,ドイルの暴力と支配欲は社会規範によって黙認されている.カールは文学的伝統における聖なる愚者(Holy Fool)の系譜に属する.善悪を直覚する能力が,単純ゆえに純粋な形で保たれている彼が最終的に下す決断は,法治国家の論理が「再犯」と呼ぶものだが,映画の文脈においては愛する者を守るための自己犠牲的な代償行為である.本作がどちらの結果も却下せず,同時に成立させる点に,脚本の成熟がある.本作は約100万ドル,24日間の撮影という厳しい制約の下で製作された.

 制約的な条件は,結果として映像のミニマリズムを生んでいる.余剰のショットを撮る余裕がなかったことが,カメラを人物に据え続け,俳優たちの沈黙の「間」を引き出した.本作の原型はビリー・ボブ・ソーントン(Billy Bob Thornton)が脚本を書き,主演した短編映画「Some Folks Call It a Sling Blade」(1994)である.長編化においてジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)がカメオ出演――アイスクリームスタンド店員――で支援の意を示したことは,インディペンデント映画の共同連帯力と解釈できるだろう.ダニエル・ラノワ(Daniel Lanois)によるアンビエントな音楽は,アメリカ南部のまとわりつくような湿気と閉塞感を音響的に結晶化させている.

 映画は精神病院の窓から外を眺めるカールの姿で始まり,同じ場所・同じ姿勢で終わる.円環構造は,運命が出発点において既に決定されていた悲劇性と同時に,自らの意志によって世界の悪を一つ刈り取り,本来属する静寂へ帰還した奇妙なカタルシスをもたらす.ソーントンは撮影期間中,靴の中に砕いたガラスを入れ,絶え間ない疼痛を自らに課したという.カールの歩みに内在する痛みは,過去の罪から決して解放されない精神的負債,世界の中を移動するたびに贖いえぬものを引きずっていることを,知覚レベルで観客に刻み込む.語られた苦悩ではなく,歩かれた苦悩――本作の演技的核心である.

スリング・ブレイド [Blu-ray]

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原題: SLING BLADE

監督: ビリー・ボブ・ソーントン

134分/アメリカ/1996年

© 1996 Miramax Film Corp